基本情報
- お坊さん(僧侶)沿革
- 室町幕府8代将軍足利義政は文明5年(1473年)に子の足利義尚に将軍職を譲り、 文明14年(1482年)から東山の月待山麓に東山山荘(東山殿)の造営を始めた。この地は、応仁の乱で焼亡した浄土寺(現・浄土院)のあったところであり、近代以降も左京区浄土寺の地名が残っている。義政が山荘造営を思い立った当初(1465年)は、実際の造営地の約1キロメートル南、南禅寺子院の一つであった恵雲院(戦国時代に廃寺)の所在地を考えていたが、応仁の乱後に変更された。
当時は応仁の乱が終了した直後であり、京都の経済は疲弊していたが、義政は庶民に段銭(臨時の税)や夫役(労役)を課して東山殿の造営を進め、書画や茶の湯に親しむ風流な隠栖生活を送っていた。造営工事は義政の死の直前まで8年にわたって続けられたが、義政自身は山荘の完成を待たず、工事開始の翌年である文明15年(1483年)にはここに移り住んでいた。東山殿には会所、常御所、釣秋亭、竜背橋、泉殿、西指庵、漱せん亭、超然亭などの大規模な建物が建ち、義政の祖父で第3代将軍足利義満が建てた北山殿(後の鹿苑寺)ほどではないが、ある程度政治的機能も持っていた。ただし現存する当時の建物は銀閣と東求堂(とうぐどう)のみである。
延徳2年(1490年)2月、同年1月に死去した義政の菩提を弔うため東山殿を禅寺に改め、相国寺の末寺として創始されたのが慈照寺である。寺号は義政の院号である慈照院殿にちなみ「慈照院」とされたが、翌年「慈照寺」に改められた。なお、造営自体が完了したのは義政死去後である。
戦国時代中期の天文19年(1550年)には第12代将軍足利義晴とその子で第13代将軍義輝により慈照寺の裏山に中尾城が築かれ(短期間で廃城)、末期には前関白近衛前久の別荘にもなったが、これは慈照寺6世の陽山瑞暉が前久の弟だったことによる。前久の薨去後の法名は東求院龍山空誉であった。前久の死後は再び相国寺の末寺として再興された。
1952年(昭和27年)3月29日には庭園が、国の特別史跡および特別名勝に指定された。1994年(平成6年)12月17日には「古都京都の文化財」として ユネスコ世界遺産に登録されている。
かつて浄土寺の鎮守社で、後に慈照寺の鎮守社となった八神社が境内地の北にある。 - 住職
- 有馬頼底
- 年中行事
- 座禅会あり
毎月第3月曜日に開催 - 開門時間
- 9:00-17:00
- 所在地
- 京都府京都市左京区銀閣寺町2
- 地図
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- アクセス
- 茶山駅 から徒歩22分(1.8km)
銀閣寺前バス停 から徒歩6分(416m)
南田町バス停 から徒歩6分(431m) - 駐車場
- バス12台・普通車40台
- 施設情報
- 慈照寺(じしょうじ)は、京都市左京区銀閣寺町にある臨済宗相国寺派の寺院。大本山相国寺の境外塔頭。山号は東山(とうざん)。本尊は釈迦如来。観音殿(銀閣)から別名、銀閣寺(ぎんかくじ)として知られている。正式には、東山慈照禅寺(とうざんじしょうぜんじ)と号する。
- その他の情報
- 銀閣寺の名の由来は江戸時代、金閣寺に対し、銀閣寺と称せられることとなったといわれています。
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