基本情報
- お坊さん(僧侶)沿革
- 九州随一の仏像彫刻の宝庫である観世音寺の縁起は伝わっておらず、関連文書として最も古いものは延喜5年(905年)成立の「観世音寺資財帳」(東京藝術大学所蔵、国宝)である。
『続日本紀』の記述によると、観世音寺は、天智天皇が母斉明天皇の追善のために発願したという。斉明天皇は661年に没していることから、それからほどなく造営が始められたと推定される。『二中歴』には観世音寺創建は白鳳年間(661年-683年)のことであるとの記事が見える。『続日本紀』の和銅2年(709年)の記事によると、この時点で造営はまだ完了しておらず、完了したのは発願から約80年も経った天平18年(746年)のこととされる。
観世音寺境内から出土した瓦のうち、創建時の瓦とされるものは、老司 I式と称され、飛鳥の川原寺や藤原京の瓦の系統を引く、複弁八弁蓮華文の軒丸瓦と偏行唐草文の軒平瓦の組み合わせからなるものである。この老司 I式瓦は現在の福岡市南区老司にあった瓦窯で焼造されたもので、7世紀にさかのぼる。また観世音寺に現存する梵鐘は、正確な鋳造年次は不明ながら、「戊戌年」(698年)の銘がある京都・妙心寺の梵鐘と同一の木型によって鋳造された兄弟鐘とみなされる。これらのことから、7世紀末ころまでにはある程度の寺観が整っていたものと推測される。
現在残る観世音寺の建物はすべて近世の再建で、昔の面影はないが、発掘調査によると、回廊で囲まれた内側の東に塔、西には金堂が東面して建つ、川原寺式に近い伽藍配置であった。その後天平宝字5年(761年)、鑑真によって当寺に戒壇院が設けられた。これは、僧になる者が受戒をするためにわざわざ都へ出向かずとも、観世音寺で受戒ができることを意味した。
平安時代以降の観世音寺は、たび重なる火災や風害によって、創建当時の堂宇や仏像はことごとく失った。康平7年(1064年)には火災で講堂、塔などを焼失。現存する当寺の仏像は、大部分がこの火災以後の復興像である。康和4年(1102年)には大風で金堂、南大門などが倒壊している。金堂はその後復旧したが、康治2年(1143年)の火災で再度焼失している。
寛永7年(1630年)の暴風雨で、当時唯一残っていた金堂が倒壊し、観世音寺は廃寺同然の状況に追い込まれた。翌寛永8年(1631年)に金堂が、元禄元年(1688年)には講堂(本堂)が藩主黒田家や博多の豪商である天王寺屋浦了夢らによって復興されたが、昔の面影には遠く及ばない。当初は「八宗兼学の寺」とされ、平安時代後期以来、東大寺の末寺であったが、明治時代以降は天台宗の寺院となっている。
大正2年(1913年)から同4年にかけて、傷みの激しかった諸仏の修理が行われた。昭和34年(1959年)には鉄筋コンクリートの宝蔵が完成。これは、寺院の文化財収蔵庫としては早い時期につくられたものである。宝蔵には像高5メートル前後の巨像3体(馬頭観音、不空羂索観音、十一面観音)をはじめ、金堂、本堂(講堂)に安置されていた諸仏が収蔵・公開されている。 - 住職
- 石田琳円
- 開門時間
- 9:00-17:00
- 所在地
- 福岡県太宰府市観世音寺5-6-1
- 地図
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- アクセス
- 西日本鉄道(西鉄)太宰府線 西鉄五条駅 (徒歩約12分)
西日本鉄道(西鉄)太宰府線 太宰府駅 (徒歩約15分)
まほろば号で「観世音寺前」バス停下車 (下車後徒歩すぐ)
西鉄バス(400系統)で「筑陽学園前」バス停下車 (下車後北へ徒歩6分) - 駐車場
- 約20台あり
- 施設情報
- 観世音寺(かんぜおんじ)は、福岡県太宰府市観世音寺五丁目にある天台宗の寺院。山号は清水山。本尊は聖観音(しょうかんのん)。開基は天智天皇である。九州西国三十三箇所第三十三番札所。
九州を代表する古寺で、造営開始は7世紀後半にさかのぼる。奈良の東大寺・栃木の下野薬師寺とともに「天下三戒壇」の1つに数えられる。平安時代以降は徐々に衰退したが、仏像をはじめとする文化財を豊富に有する。
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